友人が、 一冊の本を貸してくれた。何気なく読み始めた私は、その中の一つの言葉の前に立ち止まり、考えこんでしまった。「愛し過ぎることは、相手を傷つける。見詰めることさえも……」という意味の言葉であった。私は子供たちから「そんなに見詰めないで」といわれたように感じたのである。
子どもたちの成長をふり返ってみると、私がそばにいると子どもたちはよく笑い、機嫌よく遊んだ。母親が見えなくなると後を追ってきた。
「ミテ、ミテ」というのは新しいことができたときの、お得意の口ぐせだった。はじめて歩いたときも、お便所でうんちができるようになったときもそうだった。鉄棒で逆上りができるようになったときには、わざわざ公園から戻ってきて、私に見せようとした。子どもは母親が見守るとき、安心し、励ましや、慰めを感じ、私もそのことを喜んでしてきたのである。
成長の記録をよく見ると、母親に見守っていてほしいという要求と同時に、その反対に、見られたくない、目をつぶつていてほしいということも育つていることに気づく。二歳半の子が、お客様に出したお菓子を一つ取ると、後を向いて、私の方を見ないようにしながら、走っていつた。そんなことは、はじめてだつたので、ちよつと驚いた。母親に叱られないようにという生活の知恵ではあるが、そのもとには、母親とは違った意志を持った自分自身を、子どもが意識しはじめたことがある。大人が見守っている時、大人の意図や期待が子供には伝わってくる。子供が自分の意思を発揮して成功したり失敗したりする自由さを失うであろう。母親に目をつぶっていてほしい気持は、2歳半頃から出てきているのである。
一、二の例をあげると、
『……無理にトイレにつれていくと意地でがまんしているが、ついにがまんしきれなくなると「おかあさん、ごめんなさい」と、母の目を押さえて「目をつぶつてて」……(二歳九カ月)』
『叱られたとき、何か気に入らぬときでも、さっさとトイレに入り内から鍵をかけてしまう。そして歌をうたったり、何やらひとしきり喋って出てくると機嫌もなおっている(二歳六カ月)』などである。
母親に目をつぶっていてほしいという気持は、子どもの中に自己の世界が育っていることがもとになっているが、また母親の方にも考えなければならない点があるのではないかと反省した。母親としての自信は、何でも子どものことを見ようとし、知ろうとし、支配する方向へと向かってしまう。独自の意志を持った子どもが「目をつぶつて、」というのはそんなときなのかと思う。
子育ての中で時には目をつぶることが大切だと思うが、いらいらしながらでは目をぶったことにはならない。私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることあると思う。母親である自分が、子供のためにできることは少しのこどである。
そのことを認めて、目を閉じて祈るとき、何と安らかに、見守ることができることだろう。
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