朝、A子と私が庭にでると、祖父に出会う。A子はいま拾った杏の花びらを、祖父に差し出す。

「ジージ(祖父のこと)ドージヨ」。

 祖父は、ひざを折り、腰をかがめて「ハイ、アリガトウ」とていねいに受け取る。 一心に見上げていたA子の目の前に、祖父の毛の薄い頭が近づいて、それに興味をひかれたA子は「ジージ、オツム、テンテン」と手をのばす。

 祖父は「ハイ、ドウゾ」とさらに頭を低めてA子にとどくようにする。何回もくり返し「オツム、テンテン」といつてピチャピチャ叩く間、祖父は長いこと、じつと頭を差し出している。

 A子がすっかり満足して次に移ると、祖父も立ち上がり、やや赤くなった顔をゆすりながら、また散歩をつづけられた。


 やわらかな光の中で、ここだけゆつくり時間が流れているようなおだやかさが、いつまでも心に残った。

 A子が祖父に出会ったとき、拾ったばかりの花びらを差し出し
たのは、A子の嬉しい気持を祖父にも分けたい思いがあったからであろう。

 A子はかくんと頭をのけぞるようにして、祖父を見上げ、手をのばしている。精一杯なA子の気持であろう。

 真剣に高みを仰いで、花びらをわたす子どもの姿は、いつも前かがみで、せかせかと忙しい私に、 一瞬「ああ子どもはこういう存在なのだ」という思いを起こさせてくれた。

 祖父はそんなA子に対して、しゃがみこんで、両手を差し出して、花びらを受け取ってくれる。

 A子の気持は大事に受け取られたのであるが、そのことからさらに、遠く仰ぎ見ていた祖父の光った頭が近づいてきて、オツム、テンテンをして遊ぶことになった。

 A子は何回もくり返し遊び、すっかり満足して次に移る。祖父はその間、頭を差し出して楽しそうにつき合ってくれる。


 子どもの心の自然の流れにそってつき合うが、もっと面白くしようとか、オツム、テンテンができたから、次はチョチチョチアワワもできるだろう、などとは考えないようだ。


 そう考えるのは若い母親の熱い思いであるが、子どもにとって迷惑なときもあろう。このときの祖父のように、自分の存在をそのままで受け入れ、楽しんでくれる人に、幼い子どもは安らかな心を寄せるのであろう。


祖父と幼い子どもとの、このやりとりのなかには、子どもとつき合うときの大切な点が含まれている。

その一つは、子どもの差し出すものを、大切に受け取ることである。

つまらないものでも、その中に子どもの心が含まれているからである。

また子どもの気持の流れにそって、ゆったりとつき合うことも、大切な点である。

子どもの行動を先走って考えるより、いまのときをしっかり受け止めることも大切なことである。

やがて子ども自身の力で展開するようになるもとを、作ることである。心の育児の大切な点が、こんな小さなやりとりの中に含まれている。