幼児期の子育て

特に幼児期における子育てのポイントの情報を発信してゆきます。

2012年02月

 

1 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、

 

2 彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、

 

3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、

 

4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもらたしてはならない。

 

5 人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。

 

6 ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。

 

7 あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。

 

8 ツァラアトの患部には気をつけて、すべてレビ人の祭司が教えるとおりによく守り行わなければならない。私が彼らに命じたとおりに、それを守り行わなければならない。

 

9 あなたがたがエジプトから出て来たとき、その道中で、あなたの神、主がミリヤムにされたことを思い出しなさい。

 

10 隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。

 

11 あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。

 

12 もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。

 

13 日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。

 

14 貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。

 

15 彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。

 

16 父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。

 

17 在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。

 

18 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

 

19 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべてのわざを祝福してくださるためである。

 

20 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。

 

21 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。

 

22 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。

 

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「それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」。「それで」とはその前文「あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主がそこからあなたを救い出されたことを記憶しなけれぱならない」という言葉を受けた言葉である。

イスラエルの人々に神が求められることばいつもこのことのゆえであった。彼らの生活の規範は、神に選ぱれたという恩寵から出たものであった。だから彼らにとつて、いつもそこに立つことが必要であり、これを抜きにして彼らの生活は考えられなかつた。

主イエスは「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とすずめられた。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ということは、私たちの可能性をこえた戒めである。だれが一体敵を愛することができるであろうか。だれが一体仇のために祈ってきたであろうか。そのような善意は私たちのうちには存在しない。しかし、主は私たちにそれを求められる。なぜならば神の敵であった私が神に愛され、神にとって仇であつた私が神に祈られているからである。したがって主の戒めは、この主の愛に生かされた者だけが守りうるものなのである。生まれながらの人間のどんな善意もこれをなしとげることはできない。

使徒パウロは「兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」(コリントⅠ813)と語っているが、そこまで彼を積極的に生かしめたのは「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである」という信仰のゆえであった。自分のために死んでくださったキリストは、この弱い者のためにも死なれたのであると信じるとき、そんなことまでしなくてもと思われるほどの積極性に生きることができたのである。

私たちは罪ゆるされた者であり、ゆえにだれからも束縛されることのない自主の者である。何をしようが私たちの自由である。しかし、その自由がキリストの十字架の犠牲のゆえにもたらされたものであるがゆえに、私たちはすべての人に仕えていくのである。ただすべての人のために生きていくのである。この積極的な生き方こそ、今日の人々が失ってしまつているものではなかろうか。「それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである」。私たちは日々十字架の主よりこの言葉を聞くことによって、不必要なまでに積極的に生きることができるのである。私たちの生き甲斐とはこうした生き方なのではなかろうか。

 

1 こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、の集会に加わってはならない。

2
不倫の子はの集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、の集会に加わることはできない。

3
アモン人とモアブ人はの集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、の集会に、入ることはできない。

4
これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。

5
しかし、あなたの神、はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、は、あなたを愛しておられるからである。

6
あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない。

7
エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人で

8
彼らに生まれた子どもたちは、三代目には、の集会に入ることができる。

9
あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。

10
もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中に入って来てはならない。

11
夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。

12
また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。

13
武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。

14
あなたの神、が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。

15
主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。

16
あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。

17
イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならに。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。

18
どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、の忌みきらわれるものである。

19
金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない。

20
外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたの神、が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。

21
あなたの神、に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。

22
もし誓願をやめるなら、罪にはならない。

23
あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、に誓願したとおりに行わなければならない。

24
隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。

25
隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。

 

 

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 昔イスラエルにエフタという士師がいた。彼はアンモソ人と戦うために出陣していくとき、主に誓願を立てて言った。「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」(士師113031)

 ところがやがて、彼が大勝を得て帰ってきたとき、まっ先に彼を出迎えたのは、彼の愛する娘であった。彼にはこの娘のほか男の子も女の子もなかつた。彼は主への誓願を破ることができず、この日から2ヶ月後愛する娘を燔祭としてささげた。

 このエフタの物語はアブラハムとイサクの物語よりも悲惨である。なぜ愛の神は彼のこの誓願をおゆるしにならなかったのだろうかとさえ思わせるほどである。しかし、神はご自身のひとり子さえも私たちのためにくださるかたであると同時に、たといひとり娘であろうと、その誓願を果たすことを求めたもう方なのである。私たちはともすれば、愛の神を信じるけれども、その厳しさを忘れやすい。特に十字架による救いを信じる私達にはすべてが許されているということの故に神の激しい求めを見落としやすい。

 親鸞の息子に善鸞という人がいたそうであるが、彼は父の子に似ず、放蕩に身を持ちくずした人物であったらしい。彼のところに父、親鸞の高弟、唯円がたずねてきたとき、彼はこんなことを語っている。「とても罰なくして赦されるような身ではありません。それは虫が良すぎます。私は卑しくても、このような汚ない罪を犯しながらそのまま助けて呉れと願う程あつかましくはなっていないのです。それがせめてもの良心です。私の誇りです。私は寧ろ、かくかくの難行苦行をすれば助けてやるといって欲しいのです」(倉田百三「出家とその弟子」)

 この善鸞の言葉には「善人救わる、悪人をや」という絶対他力の信仰がおちいるあやまちに対する警句が語られているのではなかろうか。「それは虫が良すぎます」というこの良心のないところに、真に救われる世界というものはないのではなかろうか。

 旧約には、どこまでも私たちに求めたもう神が証しされている。罪に対する代償を求めたもう神なるがゆえに、ゆるしのために十字架を必要とされたのである。誓願を果たすことをどこまでも求めたもう神を知らずに、私たちはまことのゆるしを体得することはできない。その意味において旧約は私たちの良心である。

 

 

1 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたは同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。

 

2 もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。

 

3 彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。

 

4 あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。

 

5 女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。

 

6 たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。

 

7 必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。

 

8 新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は地の罪を負うことがないために。

 

9 ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。

 

10 牛とろばとを組にして耕してはならない。

 

11 羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。

 

12 身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。

 

13 もし、人が妻をめとり、彼女のところに入り、彼女をさらい、

 

14 口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった」と言う場合、

 

15 その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。

 

16 その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。

 

17 ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。

 

18 その町の長老たちは、この男を捕らえて、むち打ちにし、

 

19 銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。

 

20 しかし、もしこのことが真実であり、その女の処女のしるしが見つからない場合は、

 

21 その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければならない。彼女は死ななければならない。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからである。あなたがたのうちから悪を取り去りなさい。

 

22 夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。

 

23 ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、

 

24 あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。

 

25 もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。

 

26 その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。

 

27 この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。

 

28 もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕らえてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、

 

29 女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。

 

30 だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。

 

 

 

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女が男の服装をし、男が女の服装をするのが流行の当世に、「女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのようなことをする者を忌みきらわれるからである」という規定は大きな関心事である。なぜ神はそのようなことをする者を忌み嫌われるのであろうか。

私は、すこし前一人の青年がまっかなセーターを着ていたので、「君はなぜそんな女の着るようなものを着るのか」ときいたことがある。そのとき、彼は私にこう答えた、「どうして赤いセーターは女の着るものなのですか。そんな規定はどこにあるのですか。自分が好きな色のセーターを着ていて何が悪いのですか、自由じゃありませんか」。私は返す言葉がなかつた。

しかし、この「自由じゃありませんか」という言葉は多分に危険を含んでいる言葉のように思う。そこには創造の秩序というものが無視されているのではなかろうか。聖書には「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と宣言せられている。創造の秩序とはそのことである。男には男の使命がある、女には女の使命がある。それぞれに使命を与えて神は人間を男と女とに創造されたのである。したがって私達の自由とは、その神から授けられている使命に対して存在するものであって、そうした使命を忘れた自由は創造の秩序の破壊であって、したがってそれは自己の破壊につながるものである。

今日「らしくない」ことを得意がる風潮がある。牧師らしくない牧師、クリスチャンらしくないクリスチャン、そのような人が理想像のごとくに考えられがちである。もちろん「らしく」ということが内容をともなわない場合、その偽善性は私たちの忌み嫌うところである。しかし、もし「らしくない」ということが、神の選びという創造の秩序を無視するものであるならぱ、それは自己の破滅にいたるものであつて、私たちが厳に慎まなけれぱならない事柄である。

私が私として創造されたというところに、深い神のみこころのあることを忘れてはならない。そして私に与えられているものを守り大切にしていくことが造られた者の歩みである。聖書は服装のことを語りながら、神の創造のみこころを軽んじてはならないことを戒め、そのような者は神が忌み嫌われることを述ベて私たちの注意を喚起してくれているのである。自分に与えられた賜物を充分に生かすことに精進しようではないか。

 

1 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したかわからないときは、

 

2 あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。

 

3 そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、

 

4 その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首の骨を折りなさい。

 

5 そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。

 

6 刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、

 

7 証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。

 

8 主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。

 

9 あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。

 

10 あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたに渡し、あなたがそれを捕虜として捕らえて行くとき、

 

11 その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、

 

12 その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、

 

13 捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところに入り、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。

 

14 もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。

 

15 ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、

 

16 その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。

 

17 きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。

 

18 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、

 

19 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、

 

20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。

 

21 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。

 

22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、

 

23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

 

 

 

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もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母のことばにも従わず、父母がこれを懲らしめても聞かないときは、その父母はこれを捕らえて、その町の門に行き、町の長老たちの前に引き出さなければならない。そのとき町の人はみな、彼を石で撃ち殺し、あなたがたの内から悪を取り除かなければならない。

 ひとりの親不孝者が出た場合それを全体の問題として処理していくこと、ここにイスラエル人の連帯感がある。神の選民として選ばれたという事実が彼らをしてこの連帯感に生きさせた。

 使徒パウロは「もしひとつの枝が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ。あなた方はキリストの体であり、一人ひとりはその肢体である」(コリントⅠ 122627節)とかたっている。御子イエスキリストの十字架の血潮によってあがないとられたという恩寵の事実に立つときにのみ、私達はこの連帯感に生きることができるのであり、したがってこの連帯感こそ、私達教会の命である。

 モーセはイスラエル人の中から悪を徹底的に除き去ることにおいて連帯性を強調しているが、私達は、強いものが、弱いものの弱さを担うことにおいて、すなわち愛において連帯にいきることが勧められている。

 先日ひとり暮らしのお年寄りが死んでから何ヶ月もそのまま放置されていたというニュースが新聞に出ていた。見つかったときには白骨になっていたとのことである。この人にも縁者がいたことであろう。友人や隣人もあったに違いない。それなのにどうしてみなが何ヶ月も気づかなかったのか。他者に対する思いやりが失われ、互いの連帯感が薄れているからではないだろうか。そしてその根本は愛の欠如ということである。

 さて私達の教会はどうであろうか?先日、教会を長い間休んでも誰一人尋ねてきてくれなかったといっていた人がいた。そういう考え方に問題がないわけではないが、そういう状態ではもはやキリストの体とはいえない。私が主の十字架の贖いを信じるということが、隣人への関心となり、連帯意識となって現れていくところに、私達の信仰が在るのである。

尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

1 あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。

 

2 あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、

 

3 彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。

 

4 共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

 

5 つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。

 

6 ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。

 

7 女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、他の者が彼女と結婚するといけないから。」

 

8 つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」

 

9 つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。

 

10 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。

 

11 降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。

 

12 もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。

 

13 あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。

 

14 しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。

 

15 非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。

 

16 しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。

 

17 すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。

 

18 それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。

 

19 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。

 

20 ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。

 

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「あなたが敵と戦うために出るとき、馬と戦車と、あなたよりも大勢の軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない」。なぜなら、あなたをエジプトの国から導き上げられたあなたの神、主が共におられるからである。

 自分より巨大な敵を見て恐れないものはいない。エリシャの家がスリアの大軍に攻め囲まれたとき、召使はそれを見て「ああ、わが主よ、私達はどうしましょうか」と叫んだ。当然のことである。なるほどエリシャは神の人といわれるような偉大な信仰者である。しかし、この大軍の前にはいかなる信仰者もどうすることもできない。これが若者の判断であった。彼は現実から神をみたのである。ところがエリシャは「恐れることはない。我々と共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」と言って「主よどうぞ彼の目を開いて見させてください」と神に祈った。エリシャは若者の目が開かれて、そこから現実を見させようと願ったのである。若者が神のおびただしい軍勢を見たとき、もはや彼はスリアの軍勢を恐れることはなかったのである。

「向こう見ず」という言葉がある。信仰とは現実がいかようであれ、それを恐れたり、それにあわてたりしないで生きることである。しかし、それは決して「向こう見ず」のようなものではない。現実がいかようなものであれ、その現実を有らしめている方を信じるがゆえに、そしてその方の愛の故に、恐れたり、あわてたりしないで生きることである。

 イスラエルの人たちにとって、出エジプトは彼らを愛したもう神との出会いの場であった。そのゆえに、彼らはその原体験に立つことによって、勇気をもって生きることができたのである。使徒パウロは「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちから蘇ったイエス・キリストをいつも思っていなさい。これが私の福音である」と教えている。私達はこのイエス・キリストを仰ぐことによって、味方としての神を仰ぐことが許されているのである。

 「イスラエルよ聞け、あなた方は今日、敵と戦おうとしている。気後れしてはならない。恐れてはならな。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなた方の神、主がともに行かれ、あなた方のために敵と戦って、あなた方を救われるからである。」これが祭司に課せられた務めであった。今日の世界に祭司として召されている私達も、世に向かって語るべき言葉はこの言葉である。これを語らずしてなんの奉仕であろうか。

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